備忘録 〜読書と映画と、時々推しと〜

NEWS・作家 加藤シゲアキくんのファンです

ソメイヨシノ

そろそろ、桜が散り始めました。ここは東京です。

春は嫌いです。新しいことが始まり、周囲も新しい環境にそわそわしている。だから自分まで浮き足立ってしまいます。

春は精神的にも不安定になる時期と言います。新しいことが始まり気持ちが追いつかなくなります。気候の変化も激しいです。寒いと思った朝、昼間には夏のような暖かさに見舞われて、体も追いつかなくなりがちです。

春が待ち遠しいなどと思う人も多いと思います。一方で、春が来るのが憂鬱な人も多くいます。自分もその一人です。変化や周囲が浮かれる感じが非常に苦手です。

寒い環境と暖かい環境

個人的に考えたことです。寒い時には暖かいコートをきて、暖かいセーターを着て、身も心も守られた気持ちになります。春が近づくにつれて、一つ一つまとっていた物を剥いでいき、服の生地も薄手になってきます。外気に曝け出されるような気持ちになってきます。その変化が怖いと感じるのかもしれません。

ソメイヨシノ

今年は訳あって4月の中旬まで仕事が休みです。春の花を心なしか楽しむ心の余裕が生まれました。桜は綺麗で見ていたいと思います。しかし開花と共にすでに散り始めます。開花から1週間が経ち、すでに緑の葉の方が目立つようになりました。何か「ホッと」する気持ちになってきます。緑になる頃には、正常に戻る感じがします。

そんなことを考えていたのです。

つまり、春が始まり緊張が高まる時期、少しでも桜の花を見て心を和ませる。新しい環境に慣れた頃には緑の葉になり、もう桜の景色が必要なくなる。

もちろん、ソメイヨシノは接木でできる植物なので、クローンであり、開花の時期は温度環境で一緒になるため、同じ地域は一斉に咲き、一斉に散ります。

だけれど、もしかしたらそんな優しさもあるのかもしれないとふと思いました。

 

夜と霧 V・E・フランクル 初めて読んだ

著者のフランクルオーストリア精神科医であり、ナチス・ドイツ政権により強制収容所に入れられた人物です。彼は最後まで生き残ることができた数少ない囚人の一人でした。

初めて読みましたので、備忘録的に、まずは心に留めておきたいことを書こうと思います。

人を愛すること

人を愛するということは、目の前に実在せぬとも、その人が実在しているかどうかは関係ないということがP125に記載されていました。その人を思い、幸せであって欲しいと願うということ。それが愛することなのではないかと本文から思われます。実在しなくても良いというのは少し大袈裟かもしれません。

しかしこの事柄について考えていると、その人に会いたい、触れたいというのはあくまでも自己の中の欲求であり、相手を思ってのことではありません。愛と整理的欲求というのはやはり区別して考えねばならないと実感します。

そうなると、現代の二次元アイドルを好きになる人の気持ちも好し理解できます。存在しなくて良い、その人が幸せでいてくれたら自分も幸せであるということ。私自身もシゲアキく君のファンであり、彼は存在しているけど彼とデートをすることは出来ない。それでも、日々の出来事に一喜一憂し、自分の気持ちが満たされていく。これは、決してばかに出来ないことです。

厳しい状況で存在し続けるために

内的な自由は脅かされないということはつまり、唯一の自由があるということ。現実はひどく、身体的にも弱り果てていこうとも、精神活動までは支配されることはない。しかし内的にも崩壊し身体的にも心理的にも崩壊すると人は動けなくなる。

彼は自己を放棄したのである。p179

勇気と落胆、希望と失望というような人間の心情の状態・・・失望と落胆へ急激に沈むことがどんなに致命的な効果を持ち得ることを知っている

未来に対して期待があること、目的があること、自分自身について存在の意義を理解できていることは生命を維持することにとても重要であると述べています。

現代でも厳しい状況で希望を持っていろと言うのは、もしかしたらクレームが飛んできそうなことかもしれません。ただ、やはり個人としてはこの精神は同感しています。私しじんも失敗については恐れず、ほかに方法があると思い、無謀な挑戦も挑むタイプです。この「未来に期待」と言うことが挑戦を後押ししてくれていると思います。

九 深き淵より

強制収容所から解放された囚人の心理について、心理的緊張から解放された人々は、いわば離人症のような状態になったと述べています。

離人症とは現実に目の前にあるものが現実的なものとして認識されない状態のことです。永遠に続くのではないかと、思いながらも心のどこかで未来を見て、生き抜くことを夢見ていた過酷な日々が急に止まった時、脳内は麻痺していたのだと思います。

やっと現実を受け入れられるようになった最中、囚人とならずに生活できた人には受け入れられない。自分が思い描いていたような形で、彼らを受け止めてはくれない。彼らが受けた苦悩を償ってくれる人はいないと言うことに気づかされたと言うのです。

 

「夢を与える」綿矢りささん

wowowでの連続ドラマ化、そして映画化もされています。

夕子は3歳でCM契約をして、その後は子役として引っ張りだこの生活を続ける日々。その影の立役者として存在し続ける母。母幹子と微妙な関係を続けながらも、夕子の父として夕子を優しく見守る父トーマ。

文庫本にして300ページほどある長編。夕子の生涯と言えそうな物語ではあるけれど、18歳までの実はまだ幼く、まだ若い時期までを描いた物語でした。

蹴りたい背中とは違う角度から

蹴りたい背中は、それこそ高校生の生活を中心として描かれているけれども、この作品は高校生までを描いています。蹴りたい背中が平凡な女子高生だとしたら、本作の夕子は芸能人として全国に名を知らしめている人物です。

心身のバランスが微妙に歪になる

小さい頃から大人に囲まれた生活を送りすぎたせいで、周囲の同年代の友達よりも大人びている夕子です。しかし、それはある意味守られすぎていて、同年代同士のいざこざを経験せずに来てしまい、実は内面では幼さが目立ちます。ギャルズクラブのパーティーに自ら参加して、気持ちが追いつかずに一人駆け出してしまうところや、正晃を信頼し切っているところ。心身の成長バランスが取れていないと感じてしまいます。

この微妙な感じを繊細に描かれていると感じました。

 

湊かなえさん著 「夜行観覧車」を読んで

高級住宅地に住む3家族

ひばりヶ丘という高級住宅地に住む高橋家で殺人事件が起きました。高橋家の母親の証言では母親が父親を殺害したということ。そして隣に住む遠藤家。癇癪持ちの彩花の気もちをなんとか逆撫でまいとひっそり暮らす、母真弓、そして家庭で起こるいざこざに巻き込まれまいと距離をとる父啓介。そのお迎えに住む、小島さと子は昔からひばりヶ丘に住む住民。謂わゆるセレブと言われる主婦。ひばりヶ丘を高級住宅地へとのしあげたと自負している。

殺人事件が起きた高橋家の子どもは、父親の前妻の子ども、長男で良幸と長女比奈子と中学3年の彩花と同級生の慎司。慎司は事件当日はコンビニにいた。そしてその後、姿をくらませたました。

もっぱら焦点は妬み・恨み

ミステリーと思いきや、内容は人間の妬み・恨みなど、ドロドロした感情からなる産物の結果を表現されています。事件の真相ではなく、この設定で沸き起こる、人間の心理的描写が非常に面白い作品です。

出てくる登場人物は、全員が全員自己中心的思考です。良幸の彼女的存在の明里すらも同様でした。少し極端な気もしますが、結局人間がトラブルを生じさせる時って、この自己中心性が根本にあるのだと非常に明確になります。どんな言葉をかけようが、それは自分が有利か不利かという価値基準で動いている。

一つ不快なことが生じると、その原因を探ろうとします。その要因が自己に向かう人は自分が潰れてしまいがちですが、夜行観覧車の人々はそれを他人や環境のせいにする人が多い。唯一していなかったのが、慎司だったような気がします。話は戻り、一つ自己都合な要因を見つけ出すと、焦点はその一点に絞られます。頭の中は、「あいつのせい」「隣の人のせい」と渦巻いていく。相談できない関係性というのは本当に怖いものだと思います。もしも、誰かに相談できていればもっと違う視点が得られたかもしれない。しかし、人は自分の体裁を守るために相談を回避しがちです。日本人は特にその傾向が強いらしいのですが。

生きていくために

湊かなえさんのお話は、生きていくための知恵が詰まっていると、よく感じます。ストーリーは面白く、どんどん人間のドロドロした関係を外観できる好奇心で読み進めていき、ある種の快感すら得られます。だけれど、ふとしたフレーズや心理描写を傍観してみると、胸がチクリと痛むような、そんな気づきが得られる作品が多いです。

普通の感覚を持った人が、おかしなところで無理して過ごしていると、だんだん足元が傾いているように思えてくるんだよ。

夜行観覧車湊かなえp351 双葉文庫 

粛々と運針 〜パルコ劇場〜鑑賞して

2022年3月から開幕しました。

作:横山拓也さん 演出:ウォーリー木下さん

出演:加藤シゲアキ須賀健太前野朋哉・河村花・多岐川裕美

演奏:GOMA&粛々リズム隊

鑑賞してきましたので、ネタバレにはならない程度に感想を書いていこうと思います。

※載せている情報は、HPに載せてある情報だけです。

GOMAさんの音楽

「粛々と運針」の世界観の土台になるような音楽でした。GOMAさんが奏でる楽器は、ディジュリドゥというオーストラリアのアボリジニにとって神聖な楽器です。もちろん、生で聴いたのは初めてですが、その音の広がりと重低音の響きは圧巻でした。

「粛々と運針」というタイトル通りに、糸が紡がれるように、人の人生が紡がれていく。その様子を、音と演出と演者が一体となって表現されていました。私は、あらかじめ脚本を読んでから行きましたが、会話をインプットできなかったとしても視覚情報だけでそのつながる一体感を感じ取れる舞台だったと思います。

加藤シゲアキくんの「一」

色々な雑誌でも、今回の役柄の中でなぜ自分が長男役(=41歳フリーター)なのかと、どちらかというと須賀健太さん演じる”紘”の方が自分に合うのではというようなことをおっしゃっていました。

実際は違和感ゼロでした。この役柄以外考えられないものでした。ということは、本来のシゲアキくんではなく役者として完全に「一」を演じていたと言うことです。

家族におこる普遍的テーマ

ーと紘の二人は、母親の大病をめぐり手術をするか積極的な治療をやめるかについて語っていきます。一方田熊家の夫婦は、妻が妊娠しているかもしれない。これからどうしていくか、というこれまた普遍的テーマで話を進めていきます。

私も鑑賞しながら、自分自身についてもふと考える瞬間が起きました。何が正しいとか正しくないとか正解がない問題。だけれども、語り合うことができるということがとても大切なのかと感じました。そんなメッセージを私は受け取りました。舞台はシゲアキくんもよく言っていますが、受けてが自由に感じて良いと思います。そこから何を見出すかは個人の自由です。

私個人も、この「語らう」ことがとくに不足している生活なので感じとったと思います。

会話劇

iaku.base.ec

事前にこちらのホームページから上演台本を購入して読んでいきました。だいぶ品薄状態な様子(R4.3.20 )ですが、読んでからいくこともまた良いと思います。ですが、先ほども述べたようにそのまま行ったとしても、この世界観は十分に堪能できると思います。

 

「13階段」高野和明さん 感想です

「ジェノサイド」の作者高野和明さんの作品。第47回江戸川乱歩賞を受賞されています。おそらく、シゲアキくんも「ジェノサイド」をかなり推しているので、読んでいると思われます。

個人的には、「ジェノサイド」よりは、ミステリー感がとても強く読みやすいと思います。

冤罪の可能性がある死刑囚を助けるため

10年前に起きた、殺人事件の加害者として死刑宣告をされた樹原亮。彼の無実を晴らすために定年間近の南郷は調査を依頼されました。そして、その相棒として選ばれたのは、傷害致死事件を起こし、2年の服役後に仮釈放された三上純一でした。仮釈放後に、実家へ戻ってこれから生活を立て直し、苦労をかけた親のために仕事を開始しようという矢先に、純一に南郷が会いにきました。そして、多額の報酬が受け取れるこの調査案件に純一も賛同して二人で事件現場の勝浦市へ向かいます。

読み手に追及心を煽り続ける

多くの情報に面食らうことはなく、丁寧に読み進めてもらいたいと思います。ジェノサイドでも同様でしたが、情報が多いです。しかし、色々な情報を調べて書かれているので、非常に勉強になります。

登場人物の動きが細かく、丁寧に描かれいてるので想像しやすいです。その細かい動きや心情が伏線になっている場合もあります。気づけば高野さんの世界感というよりも、三上淳一や南郷になっている自分がいます。だからこそ、読み進めないわけに行かなくなります。

犯した罪を償うこと

南郷は刑務官として、死刑執行を過去に2回行っていました。詳細は本書を読んでみてください。この行為がどれだけ彼らの心を蝕むのか。本文を読む限りでは、日本という国が応報刑思想と目的刑思想が混合して曖昧な状況になっているからだと解釈しました。

罪を犯した人には罰をという応報刑思想と社会的脅威を取り除くという教育的な目的刑思想。被害者家族は応報刑を強く望み、それは当然のことでもあります。そして社会全体としてもその傾向が強いのは日々感じています。しかし実際は、かなりの数の事件があるのに、死刑宣告になる数は少ない印象です。その理由についは、政治側の事情などがあるようです。それらの中に板挟みのようにいるのが刑務官など、実際に犯罪者の教育や処遇を行う人たちだそうです。だからこそ、南郷のように自分自身にとっての罪の意識として残り続けてしまうのだと思いました。

罪の意識

南郷も三上純一も常に罪の意識を抱えていました。一方、佐村光夫は常に憎悪を抱えていました。元は、三上純一だって佐村恭介に憎悪を抱き続けていました。南郷は死刑執行の業務を行う時には、応報刑思想を奮い起こして、犯罪者に対する憎悪で職務をこなしているようでした。ただ、そのあとは罪の意識に苛むことになります。当たり前のことだけれど、やはり怒りの感情をコントロールすることは、時に命取りになるのだと改めて感じました。

 

最終的に、南郷はまた罪を償う立場に置かれながらも罪の意識と向き合うことになります。罪の償いには「終わりがないな」ということを感じました。

 

「贖罪」を読んで 

湊かなえさんに現在ハマっています。

2012年にWOWOW黒沢清監督によりドラマ化されました。

空気のきれいな町で起きた殺人事件から

都会から引っ越してきた、エミリちゃんが何者かによって殺害されました。一緒に遊んでいた、紗英と真紀と晶子と由佳は、まだ小学4年生でした。警戒心が薄い田舎町の子どもたち。エミリちゃんが見知らぬ人に手伝いを頼まれても、それが素晴らしいことのように感じてバレーボールをして待っていたのです。

 

4人とそして、エミリの母である麻子の事件のその後の人生と、その前の人生を描いています。それぞれがそれぞれのキャラクターにより抱える罪の持ち方や反応が違います。それは当たり前です。幼い時に与えられた罪の意識が人生に与える影響を、繊細に描いていたことにとても関心が持てました。

麻子の言葉

わたしはあんたたちを絶対に許さない。時効までに犯人を見つけなさい。それができないのなら、わたしが納得できるような償いをしなさい。

麻子は振り返れば、それは感情に任せた、子どもの死を忘れさせないために吐いたようなセリフだったけれども、小学4年で殺人現場を目の当たりにして中学1年でこのセリフを吐かれた子どもには相当心の傷は深かったようです。

彼女たちが大きくなってから、想像もしていない何かに4人が呪われたように事件に巻き込まれていきます。その時はすでに麻子も正気な状態で、自分の人生を思い返す余力もできていました。

湊かなえさん特有の一人称

複数人の登場人物が、交互に一人称で事件以前の自分の生い立ちと、事件の時の自分と、そして事件後の人生を振り返っています。これらの内容をそれぞれの形で麻子が全て耳にすることとなるのですが、これこそがまるで麻子に取っては予想外であり、そして自分が犯した罪になるのではないかと感じます。

想像して見るだけで、恐ろしい。実はほぼ関係がないと思われるような4人。ただそこにいただけの4人が、その後の若い人生が相当の傷を背負って過ごし、中学生で麻子に言い放たれた言葉が十字架となりずっと背負い続けて殺人まで犯してしまう。それを一つ一つ目にして耳にする麻子。

贖罪の行くへは

最終的に、4人の贖罪は麻子に集約する。そんな印象を受けました。この話はあまりに悲惨でかつ事が大きい。しかし、私たち日常でも言えることではないかと思います。イライラした時に、その場の感情でよく吟味せずに言い放ってしまう何気ない言葉。どちらかといえばそれは、大人から子どもによく向かわれがちだと思います。「良かれと思って」のように。

感情任せの言葉にはやはり注意が必要です。