備忘録 〜読書と映画と、時々推しと〜

NEWS・作家 加藤シゲアキくんのファンです

「ピンクとグレー」加藤シゲアキ君作家デビュー10周年

こんにちは。本日2022年1月28日は加藤シゲアキ君作家デビュー10周年です。

10年前に出版されたのは「ピンクとグレー」(角川書店)です。だから、本日は「ピンクとグレー」について書こうと思います。

2015年に菅田将暉さんと中島裕翔くんが主演で映画化もされました。

色々な要素がたくさん詰まっていました。シゲアキ君が、気になるもの、調べたもの、たくさんの要素が生き生きとしていた印象が強いです。

ファレノプシス

胡蝶蘭というのは日本に渡ってきたときの名前で、元々は「ファレノプシス」と呼ぶそうです。日本ではその見た目の美しさから蝶ようだと言われています。

”ごっち”こと、鈴木慎吾が作った詞。この詞のビルは唐突に感じました。唐突すぎたから、それは白木蓮吾だと感じました。この作品では”無慈悲”という言葉が色々な事柄を形容しているのですが、この詞でも出てきます。

”無慈悲な噂”という世間によって作られる着ぐるみのような自分を歌っている感じがします。

芸能界の人間は胡蝶蘭の様。繊細な蝶のようで、世間によって作られていくものという。

ごっちが高校生のときに書いたというならば、姉のことを思って書いたのだろうと察します。ただ、その後の自分も常に、姉と重ねてしまう自分がいて、戻れないことを悟り、一人でもがいていたのだろうかと想像します。

アルビノについて

アルビノというメダカがどうして、透明なのかをサリーが話しているシーン。

吸収されなかった色を見ているの。つまるところ、その物質が嫌って弾かれた色が私達の目に映っているのよ。

「ピンクとグレー」p101より

嫌いな色を人に見せたくないから、アルビノは全ての色を吸収したというのです。だから、色を纏う人間は少なくとも、ある程度自分をさらけ出しているということ。

木蓮吾には色があった。それもかなり綺麗な色だったのではないでしょうか。ただ、その中にいる鈴木慎吾は。

姉のカラフルな遺言書

唯(蓮吾のお姉さん)の遺言について。母は「カラフル」と言っています。少し違和感があったのです。唯も、ステージの上で、色とりどりに輝いていたのだろうと思います。そのステージに立てなくなった唯は、透明だったのではないかと思います。母の台詞は、これらのことを全て理解している上での発言のようでした。どこか潔い感じが漂います。

舞台に立つ、子どもの親の覚悟が見えた台詞と感じました。そこまでの意図はシゲアキくんにあったかわかりません。ただ、突如現れた「カラフル」という言葉がとても印象的でした。

処女作として

この作品こそ”カラフル”だと感じます。今読み返すとですが。書きたくて、考えて、想像して、エネルギーがある感じ。10年と継続してきた作家人生に、改めて敬意と感謝をこめて書きました。

 

同志少女よ、敵を撃て 直木賞候補作を読んで

本日は、著者:逢坂冬馬 早川書房 (2021)直木賞候補作にも選ばれた「同志少女よ、的を撃て」について書きます。

著者は逢坂冬馬さん 早川書房 (2021)直木賞候補作にも選ばれた作品です。1942年のドイツとソ連の戦争が激しくなる時代。当時のソ連は女性が銃を持ち戦地で戦うということがありました。この主人公セラフィマも同様に、狙撃手となり戦地に向かいました。そんな彼女の人生を戦地での戦いを中心に描いた作品です。

主人公セラフィマと共に読み手の自分も戦地を歩くような感覚にさせられる作品でした。これからもっと多くの人に読まれるだろう作品なので、一つ二つの感想だけ備忘録として残したいと思います。

496ページと長い。主人公セラフィマと共にソ連という国で、狙撃手となり、戦地を共に歩くような感覚を覚えさせられる作品でした。

これからもっと多くの人に読まれるだろう作品なので、一つ二つの感想だけ備忘録として残したいと思います。

女性蔑視というテーマ

この長い話の中で、ジェンダーに関する問題が細く長く語られています。この議論になると心のどこかで、結局この二つが同じラインで語られるのは無理なのかと諦めかけてしまうことが個人的にあります。しかし、1942年戦争真っ只中でセラフィマやイリーナが向き合っていたのならば、女性として力が湧いてきました。

女性性と男性性というジェンダー。今でこそ、この男女の固定観念に関する問題は大きく世界の共通認識になっています。そもそも、1942年当時この女性性に嵌め込まれずに、自信の信念に向き合おうとする人生があったこと自体に非常に驚きました。

対照的に描かれたサンドラとミハイル

彼女たちと対照的に描かれていたのがまず”サンドラ”というソ連の女性です。彼女なりに生きていくには仕方がない選択をしながら戦時中を渡り歩いたのでしょうが、セラフィマからすれば、女性性を活用したずるさが見られたのだと思います。最後にセラフィマたちが、命さながら渡した生きるためのチケットすら、愛する男に渡してしまう。

一方ミハイルは、セラフィマが結婚する可能性もあった男性。男たちの、女性に対する卑劣な扱いを目にしてきたセラフィマからすれば、未来を明るく照らしてくれる存在だったはず。

人が自分と同じである必要はなく、信念や愛や生きる目的などは本当に多種多様だと思うしかないのですね。そう感じました。

敵とはなんだったのか

セラフィマは村の人間があまりに理不尽な形で殺されてしまう現場にいて、救うこともできずに、見ていることしかできなかった。そこに現れたイリーナ。お別れをする間もなく燃やされる母や村の仲間。怒りと絶望感と自責の念が怒り、目的は明確だった。仇を撃つということ。

ただ、次第に自分の中でもそも目的がぶれることを感じていくセラフィマ。人間何かに夢中になると、目的が見えなくなる。

もちろん、明確な目的を持つことが重要な場面も多く存在します。だけれど、時に目的が必要ではないときがある。そんなことを語っている気がしました。打ち込むことに問題はないし、打ち込むことが目的にすり替わったとしてもきっとその先に何かが見えてくるということ。

丘の上から見える景色というのはなんだったのか。

再読するとき、またこれから読む人はそんなことを意識しながら読むと深まりそうです。

 

 

「ドライブ・マイ・カー」について

こんにちは。

先日映画「ドライブ・マイ・カー」を観てきました。第74回カンヌ国際映画祭脚本賞受賞などその他も合わせ4冠獲得されました。

加藤シゲアキくんも2021年の10月のSORASIGE BOOKでもリスナーさんからのメッセージで話題に出していました。

2021年5月から講演された、加藤シゲアキ原作・脚本の「染、色」で、出演されていた三浦透子さんが出演されていた背景があるからです。シゲアキくんもまさに、ぴったりの役どころと絶賛していました。

「染、色」の三浦透子さんが演じた、真未を思い出しました。主人公の深馬は、真未との出会いにより、向かい合えない現実を受け止めていき、成長していく。観客として、印象深いところは、顔の表情でした。三浦透子さんの何もかも見透かしているのか、それとも、感情が抑圧されてぎりぎりのところで立っているのかなど想像を働かせてくる視線です。今回の映画でも渡利みさきの存在に似たものを感じました。

3時間という長い時間をかけた映画です。丁寧に繊細に、家福とみさきが抱える、罪の意識と人の弱さを描いていました。二人とも愛する相手の歪んだ愛情を受け止めきれずに、見放したと思い込んでいます。この心情が、家福の舞台俳優・演出家という仕事の舞台と重なりながら進んでいきます。

この作品は村上春樹さんの短編集「女のいない男たち」(文春文庫.2016)に収められています。

やつめうなぎが気になった

やつめうなぎを見た時に、音はこれが自分だと感じている。性行為をすることにより、インスピレーションが沸くという。

やつめうなぎとは、魚ではなく「生きた化石」的存在らしいです。口の見た目もゾッとする様相で、実際に生き物にくっついて、血を吸いながら栄養を得るらしい生き物です。音は、川の中でゆらゆらと流れながら、出会う男性に食いつき、そして生きていく意味を見出していたのだと思われます。

静かな中にも刺激が多い

3時間というと、少し気が抜けてしまうところもあるかもしれません。しかし、この映画は静かな中に、刺激がたくさんありました。登場する人物ももちろんのこと、やつめうなぎ、マセラティという赤い車、そしてゴミ集客場のゴミ。人以外のものにも思いが詰められていたと感じました。全てに意味を感じてしまうという意味で、刺激が多いと思いました。

※2022年2月にDVDが発売され、TSUTAYAでもレンタルが開始されるそうです。とてもおすすめです。

 

 

 

 

「寝ながら学べる構造主義」について

こんにちは。本日紹介する本は

内田樹著、文藝春秋「寝ながら学べる構造主義」です。

シゲアキ君が2020年8月に発売された「Newsweek」で紹介していました。

哲学のお話しです。哲学と言えば、ソクラテスニーチェなど聞いたことがある人も多いと思いますが、昔の人々が「人とは何か」ということについて色々考えきました。人というものに対する概念ということだとざっくり理解しています。

構造主義というのは割と近代的な考え方です。そのため、理解することで、今を生きる自分というのは何か。または人とは何か。ということを俯瞰してみることに役立つと思います。シゲアキ君も”物や人を理解できる”という目的で読まれたようです。

どの程度寝ながら読めるのか

寝ながらと言いますが、正直いうと無知な身からすると2回読んで少し理解できました。私は臨床心理士という立場で仕事をしているので、一応哲学の本を読んだ過去はあるのですが、いかに流し読みしていたかが今回発覚し、猛省しています。そんな理解が拙い状態ではありますが、少しでも多くの方に興味を持ってもらいたく、感想を書いています。是非最後まで読んでみてください。

構造主義とは

人間は他者の考えや行動に「これはおかしいな」「この人たちは、なぜそのような角度でしか物事を考えられないのか」など思うことはあります。この思いや考え方などは今私たちが「この時代」「この地域」に生まれて生きているからこそ起こる物ということ。

ときに自分独自の主体的な考えを導き出していると思うことが、実はすでにある型の中で生成された物であるということ。

だからと行って、自分自身に落ち込む必要はなくて、この世界で生きてこの世界で考えていくことに意味があるのだと思います。

本文から引用を載せます。

私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由にあるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分が属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。

内田樹(2002)文藝春秋「寝ながら学べる構造主義

構造主義が出来上がるまで

この構造主義を構築していく元となるような先人を三人紹介しています。

マルクス

フロイト

ニーチェ

マルクスは、人間が「自己意識」という、自分とは何者かということを直感するためには、まず何かを産み出すこと=「労働」が必要であり、何かを行動することにより初めて意識されると言います。

また、人間集団の中に身を投じる。その先に、自分というのはどんな存在なのか知ることができるとのことです。

 

フロイトは、「抑圧」という心のシステムを考えました。人間の心には「番人」がいて、番人が当人の思考を仕分けしているというのです。

見事仕分けにおいて「意識」に上がるものを人間は思考していると読んでいます。だから、実は自由に思考しているようで、そうではないとのことです。

 

ニーチェはこの3人の中では一番現代でも想像がしやすい考え方だと思います。ニーチェは 他人と同じように振る舞うことを目的と生きている人を「畜群」と呼びました。

さらに、その行為に幸せを感じる人々のことを「奴隷」とも言います。そして「奴隷」ではない人を「貴族」や「超人」とよんだそうです。

ニーチェは貴族や超人になるための方法を説いてはいないようですが、本書では内田さん独自の見解が書かれています。

構造主義から学べること

日本という国で生まれてたということが、ある一つの構造の中に生み落とされたとも言えます。その構造の中にいることで”社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく”疑問に感じることもなく受け入れてしまいます。

つまり哲学というのは、この視点を知ることに意味があるのだとも思います。

しかし実際、「無意識に排除されているものを、どうやって視界に入れるのか。」矛盾を孕んでいます。ここが哲学の出番です。

だからニーチェが言うように、まずはこの構造を理解する。そしてその中で生かされていた事実に嫌気がさし、うんざりし、もがく。結果として貴族や超人になれる。

 

樋口毅宏さん「雪国民宿」について

樋口毅宏(著) 祥伝社文庫

 

加藤シゲアキくんが大好きな樋口毅宏さんの作品です。「このミステリーがすごい!」でも紹介されていました。気になっていんたのですが、最近読みました。

樋口毅宏さんの「さらば雑司ヶ谷」は正直いうと途中で断念しました。こちらの「民宿雪国」は個人的にとても読みやすいです。

この書籍のジャンルは何か考えてみた

ミステリーという分野なのか、どの分野と呼べば良いのか困るくらいに謎めいた作品。

読み進めてまず短編小説なのかと勘違いする。”1、吉良が来た後” ”2、ハート・オブ・ダークネス” それだけでも何かワクワクするような想像力をこちらに働かせてくる。しかし”3、私たちが「雪国」で働いていた頃” からどうも話が混乱してくる。どういうことだろうか?という疑問がちらほら出てくる。そして、”4、借り物の人生が続く”「なるほど、どうも話が見えてき始めた」という感覚になり出す。しかし、さらに読んでいくとどうやら私自身もこの謎めいた民宿を取り巻く世界に迷い込んでいく。

話は、丹生雄武郎という画家の人生を描かれているのだが、その描き方というのが一筋縄ではいかない。有名な画家という位置付けなのだが、本書のほとんどを読んでも、そのような印象は全く受けない。つまりは、いかに本書がこの丹生雄武郎の見えない、内部を描いているかということ。

固定概念が通用しないな

自分が元々持っている物差しで読み始めると理解に苦しむ。それは男女や性という概念について特に感じる。何が正しくて何が間違っているのか。そもそも男と女という概念がバカらしくもなってくる。愛の裏側は憎しみなのか、それとも並列なのか、そんな感覚すら自分が持ち合わせているもので読み解こうとするには無理が出てくる。

そもそも、誰が主人公というものなんかが混乱してくる。小説と見るのか、伝記と見るのか、何が正しのかそもそもの枠組みが読む側になかなか作れない。だから混乱してくる。まさに何度も読むことで味わいが出てくる作品。

テーマは何だったのか

丹生がそもそも「名もない女」に対して思い入れがあるのは、そこに母を見たからだと解釈するのが容易い。このあたりは普遍的なテーマが見られる。しかし、差別的な論点からいうと奥が深くなる。父母という、次元の話ではなく、人種問題など今でいうLGBTのような広いテーマで考えることもできる。人間として生きているから起こってしまう、理不尽な運命に対する絶望感なども感じられる。

そもそも彼は何を守りたかったのか、何をすれば人生が開けるのか、心が救われたのか。何もなく、ただ死ぬこともできずに過ごしていた人生だったような気がする。誰も自分の行為を止められる人もいない。異常なほどの孤独さがある。

生まれた時の自分の運命を変えることは誰にもできず、けどその運命を恨むというよりも、どこか受け入れながら時間をかけて自分を痛めつけていたような気がする。

しかしこの丹生に対して同情はできない。しかし残酷なまでのこの人生や、残酷な行為に怒りを覚えるとかそういう後味ではなく、読み終えた後は、

人は生まれ、苦しんで死ぬ。人生の要点はそれでつきている

この感覚が読み手にも伝わる。

借り物の人生とは

小さい頃から父親や異母兄弟から蔑まれて生きてきた。自分の生い立ちも知りながら、自分とは何かというアイデンティティは育たずに、自分のものかも分からぬ怒りと恨みを募らせながら生きてきたのだろう。しかし、借り物の人生ということは、本来の丹生は「空っぽ」だったということか。空っぽの中に怒りや恨みだけ積み重なってきた身体で、憐れむことや信頼するという感情は育たなかったのかもしれない。

台湾が舞台「流」について

東山彰良 著「流」講談社 2017年 第153回直木賞受賞作

 

先日発売された「このミステリーがすごい!」(宝島社)で加藤さんが紹介されていた「流」を早速読みました。樋口毅宏さんの「民宿雪国」を読んだ後なので、ヘビーな流れが続いています。

魚が言いました・・・わたしは水の中で暮らしていたるんだから あなたにはわたしの涙が見えません  「魚問」より

 

本書を読み上げるまで、この意味がわからなかった。魚は祖父なのかと考えるが、この時代に祖国を離れ、本当の家族とも離れて暮らさなければならなかった当時の人々を例えているのかと。

ボリュームがあるが、飽きない

仕事をしながら読み進めることを1週間かかりました。文庫本約500P

出てくる登場人物は中国や台湾の方の名前のため、人物と繋がりを理解するまでに50Pほどかかった。

舞台は1975年、葉秋生(イエ・チョウシェン)が17歳の時の出来事。祖父の葉尊麟(イエ・ヅゥンリン)が何者かに風呂場で殺されているのを秋生が発見する。

話の最終段階まで犯人が誰なのか検討がつかない。読み手の自分も半ば犯人追及を諦めかけてしまい。どこか青春物語に切り替わってしまう心地になってしまう。

とはいえ、そんな生ぬるい青春時代ではなく、この頃の日本からは想像しづらい厳しい光景が続く。

ボリュームがあるが、飽きない

読み応えは十分にあり、500ページほどある本書を読み終えた時に何とも言えない冒頭からの謎解きが待っていて、腑に落ちていきます。出てくる登場人物は中国や台湾の方の名前のため、人物と繋がりを理解するまでに多少時間がかかりました。

舞台は1975年、葉秋生(イエ・チョウシェン)が17歳の時の出来事。祖父の葉尊麟(イエ・ヅゥンリン)が何者かに風呂場で殺されているのを秋生が発見したことにより、秋生の青春群像劇が始まります。

話の最終段階まで犯人が誰なのか検討がつかみません。それよりも読み手の自分も半ば犯人追及を諦めかけてしまい、どこか青春物語に切り替わってしまう心地になってしまいます。

とはいえ、そんな生ぬるい青春時代ではなく、高校を退学したり、軍隊に入隊したり、ヤクザに絡まれたりと一筋縄にはいかない青春時代でした。

共産党と国民党 

台湾と中国の歴史を理解する必要が出てきました。中国では、1920年代に共産党と国民党に分裂しています。その後、第二次世界値戦で日本と戦うという名目で一度は協力し合いますが、その後の内戦により敗れた国民党は台湾に渡ることとなります。台湾に渡って祖父を持つ秋生の青春物語は祖父の人生を遡るように人生を歩んでいきます。

ゴキブリホイホイという伏線

祖父を殺した犯人が分かりかけるきっかけが、「ゴキブリホイホイ」でした。嘘か本当か、秋生の部屋にゴキブリが多発した時に日本から輸入されたという「ゴキブリ取り」が驚くほどに効果を発揮していました。そのゴキブリホイホイから、宇文叔父さんの謎が溶けてきます。

長いお話ですが、前半での話は伏線になっており、ラストのシーンに繋がってきます。もしも読まれる方は、話が脱線したと思わずに最後まで読んでみてほしいです。読み終わった時に、中国と台湾の悲しい歴史を改めて知ることとなり、感慨深くなると同時に、秋生という青年と一緒に何か人生を辿っているような不思議な感覚になります。