備忘録 〜読書と映画と、時々推しと〜

NEWS・作家 加藤シゲアキくんのファンです

「蹴りたい背中」を読んで

こんにちは。先日「タイプライターズ〜物書きの世界〜」(フジテレビ)の再放送を見ていたら、綿矢りささんの回が放送されていました。

シゲアキ君情報

2022年版「このミステリーがすごい!」でも綿矢りささんの名前に触れています。そのほか2020年11月の「タイプライターズ」でもゲストにいらしています。当時高校生のシゲアキ君は『蹴りたい背中』をスノボーに行く途中のバスの中で読み、「自分はスノボをしている場合なのか」と言うほどに衝撃を受けたとお話ししていました。

綿矢りささんは2001年の17歳の時に「インストール」で文藝賞を受賞されました。そして本作「蹴りたい背中」は19歳の時に出版され、第130回芥川賞を受賞しています。当時は年齢の若さもあり、とても話題になりました。読まれた方も多いのではないでしょうか。

高校1年生で、まだクラスに馴染めず、孤立した生活を送る長谷川初実。理科の授業で、グループを組む相手が見つからない。そして初実と同じく、相方が見つからない にな川と二人してクラスで浮く存在として目立ってしまう。オリチャンの熱狂的ファンのにな川から、彼の部屋に招待されたことで話が展開していきます。

冒頭から孤独が漏れ出ている

冒頭はとても印象深いです。

さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締め付けるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。

蹴りたい背中

高校生活が始まってもなかなかクラスに馴染めない初実。中学からの友達の絹代にも見捨てられて、孤独な音をどう消し去るかに集中している様子が痛々しいです。

クラスの交友関係を相関図にして書けるのは、きっと私くらいだろう

蹴りたい背中

強がって見せても、周囲を気にして止まない、孤独です。ところどころに出てくる表現や描写が、とてもわかりやすく、”なるほど”と腑に落ちます。自分も転職してたての職場では同じような孤独な気持ちを味わいました。陸上部の部室から出ることすら、気を遣ってしまうこの孤独。動く前に、頭で考えすぎてしまい、行動にうつすことができない。もう八方塞がりな状態になります。

なぜ蹴ったのか

オルチャンのラジオに夢中なにな川の背中を見て痛めつけたい衝動が走ります。本人だってなぜ蹴りたくなるのか、わからないと思います。オリチャンの顔に切り抜きに、オリ チャンではない、明らかに幼い裸の切り抜きがついていたのを見た時の初実。「これは無理がある・・・。」と言いながらも何かを感じていました。思春期の入り口に感じる、性への関心とそれに触れてはいけないという罪悪感と、だけど一歩進んでみたい性的衝動が絡み合っているのでしょうか。そこに、ただひたすら片耳だけで、オリチャンに囁かれていることを楽しむにな川はどう映ったのか考えました。

性的衝動にも押され、興奮して、脳内が激しく動いている初実の存在を、またしても教室の女子のようにこの存在を無視することへの怒りでしょうか。恋愛対象なのか、ただの性的対象なのか、初実に取っては、今まで感じたことのない衝動をにな川に感じているようです。のちに、唇が切れたにな川の血を衝動的に舐める初実がいましたしね。

お互いの孤独が緩和されていく

『痛い、なんか固いものが背中に当たっている。』とにな川が言います。オリちゃんのライブで落ち込んで、そばに居てくれた友だちを「意識」していることがわかります。初実の足をしっかりと見ていました。初実にとっても、自分がそこにいることが無視されずに、背中に存在を受け止めてくれた感覚があったと思います。

改めて読むと、思春期物語が微笑ましく感じます。

カミュ「異邦人」を読んで

 

こんにちは。今回はカミュの「異邦人」について紹介したいと思います。

シゲアキ君お勧めです。

2021年発売の「ダ・ヴィンチ」で何度も読み返し絵いると話しています。”明晰で淡々とした主人公の語り口”と表現して、短い文章でこれだけ人の感情を表現できることに驚きを持っていると話しています。

異邦人 とは

1942年に刊行された、アルベール・カミュによる作品です。ノーベル文学賞作家です。日本では新潮社より出版されています。”きょう、ママンが死んだ”から始まります。主人公のムルソーは、離れた場所の養老院に暮らす母が死んだことを聞き、仕事を休み母に会いに行きます。しかし母の顔見ることなく、涙を流すことなく過ごします。翌日には、マリイとデートをします。数日後に、友人がアラブ人と揉めて、追われていることをしります。そのアラブ人を銃で5発打ち殺します。そして刑の裁きを受けます。

一度読めば好きになります

一度は読むことを非常にお勧めします。理由は明確で、短い話のためすぐに読めること。そして、一度読めばまた読みたいと思わせる何かに出会えるため。

感情は載せられていません。ムルソーにの目線で、事実だけが淡々と述べられています。彼の思考は語られています。

太陽の光はほとんど垂直に砂の上に降りそそぎ、海面でのきらめきは耐えられぬほどだった。

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ムルソーと太陽

太陽はいま圧倒的だった。砂の上に、海の上に、ひかりは粉々に砕けていた。

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われわれは眼も伏せずに互いにながめ合った。ここでは、すべてが、海とすなと太陽、増えと水音との二つの静寂との間に、停止していた。

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顔のうえに大きな熱気のを感ずるたびごとに、歯がみしたり、ズボンのポケットのなかで拳をにぎりしめたり、全力を尽くして、太陽と、太陽があびせかける不透明な良い心地とに、打ち克とうと試みた。

友人に怪我をさせたアラビア人と遭遇した時

それはママンを埋葬した日と同じ太陽だった。

太陽から逃れようと、体の位置を変えるムルソーです。アラビア人が持つ刃に太陽と光が跳ね返り、ムルソーの額に迫りました。

このように、ムルソーにとって太陽が何を意味するのか、どうしてアラビア人を殺したのか、そんな点を何度も読みながら自分なりの解釈を持っていくことが楽しく感じられると思います。

ムルソーという人物について

色々と考察は考えられていて、サイコパスではないかという意見もあったりします。自分としては、感情表出が非常に苦手な今でいう発達障害に該当する人物ではないのかと思います。悲しいということは肌で感じているけれど、なんと表現して良いのかわからない。マリイから「愛しているか」と聞かれると、「愛していない」と正直に答えてしまう。結婚することに拒絶はないので、了解する。相手の心情などお構いもせずに、自分の思うことろを素直に話すところです。

二部について

二部では、ムルソーがアラブ人を殺したという事実よりも、母の葬式で泣かなかったことにより罪が確定したようです。判決の時間も予定した時刻とは違いました。そして「フランス人民の名においてというあいまいな観念」から判決されたこと。

こうしたすべては、このような決定から、多くの真面目さを、取り去るように思われた。そうして宣言がなされるや、その効果は私が体を押し付けているこの壁の存在と同じほど、確実な、真面目なものになることを、私は認めざるをえなかった。

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ムルソーにとって、あいまいな、人の感情や感覚で決められる物事に信用はなかったのでしょうか。それに引き換え、死刑執行をするという事実は、とても確かで、明確なものだったのかもしれないと思いました。司祭の話す「神」の不確かさや、そして「神」への強要などムルソーにはうんざりだったようだと感じます。

死ぬことが悲しいと決めつけてかかる司祭がいました。ママンが亡くなった時に勝手に泣いている周囲にいわかんを感じていたのかもしれません。想像の域は出ませんが、ムルソーがこれからあいまいな人生を送るよりも、今「世界の優しい無関心」に心を開いてしにゆくことは、ママンと同様に生きを吹きかすことだったのかも知れません。

「不自由な絆」朝比奈あすかさん

不自由な絆とは

リラと洋美は同じ中学高校の同級生でした。つるむような仲ではなかったのですが、同じ年齢の子どもをもち、同じ街に住んでいたので、乳幼児検診で偶然の再開を遂げます。

洋美の子どもの敏光は小さい時から癇癪が激しく、文面からも育児ノイローゼ状態に洋美はなっていました。一方リラの子ども光鳥はおっとりして静かな子どもでした。そんな出会いから始まり、同じ幼稚園、同じ小学校と進み。いじめた、いじめられたの問題が生じていくことで子どもや母親の関係が崩れていきます。

なぜ母親はここまでこじれるのか考えてみた

我が子という母親ではコントロール仕切れない存在の行動によって、その母親たちの運命がコントロールされていくということです。

ある時自分の子どもが誰かをいじめていると知らされます。事の事態も知らないし、そこにいた先生は何をしていたの疑問も残るなか、周囲の子どもの証言や当事者の子どもの証言を元に親には伝えられます。理由も本当のこともわからないままに、相手の家庭に謝罪へ行ったり、家庭が責められていることへの怒りの矛先を当事者の子どもに向けたりと、つまりは八方塞がりになる様子がよく観て取れます。

ママ友という組織

一度、ママ友という組織に入ることで、憶測が憶測を呼び語り合うことで単なる憶測がどんどん事実かのように話し合われていく。

ママ友内では事実となり、強いては相手を貶める行動まで起こさせるという実際にもあり得るだろう状況が起こります。

だからママは途中で気付くんですよね。もうつるむのは止めようと。自分のコントロールできない状況にいる子どものことで繋がっているママ友の輪。そこに真実は不透明すぎるんです。

人質のような子ども

洋美は元々、間違っていることは、「間違っている」とはっきり言える子でした。子育てをしていくうちに、相手の心理を読んで、打ち明けてみたり、黙ってみたりとやたらと心理戦を行うようになっています。それは自分の言動で、子どもの人生が左右されてしまう恐れがあると思っているからです。学校などに子どもを送る親は、まるで子どもを人質に取られているような感覚なのではないかと想像されます。

理解できることは、子どもの成長というのは、親の囚われをゆっくりと解決してくれます。親は大人のままだけれど、子どもは成長しますよね。

 

映画「偶然と想像」を観てきた 

シゲアキ君情報

こんにちは、2022年2月のSORASIGEBOOKで、「偶然と想像」を観たとシゲアキ君お話ししていました。「ドライブ・マイ・カー」の監督:濱口の作品です。まだ間に合うということで、駆け込みで観てきました。

偶然と想像とは

監督・脚本:濱口 竜介

キャスト:古川琴音 中島歩 玄理 渋川清彦 森郁月 甲斐翔真 占部 房子 河井 青葉

第71回ベルリン国際映画祭 銀熊賞(審査員グラプリ)受賞

  • 第一話「魔法」(よりもっと不確か)
  • 第二話「扉は開けたままで」
  • 第三話「もう一度」

非常にシュールであり、笑いもあり、楽しい映画でした。観れる機会があれば、本当にお勧めします!

偶然とは

もしかしたら、人生の中で、過ぎ去ってしまえば忘れてしまうような偶然。けど、驚いてしまう。そんなことが自分にもあったなと思いながら観ていました。ただ、その一コマを他者視点で見るということに、面白さがありました。これから、自分の人生でも起こり得る「偶然」に遭遇した時に、思い出す作品になりそうです。

「偶然」と言っても、それにはストーリーが必ずあるはずです。自分が思う偶然は、時々流し去ってしまうことが多いのですが、3作品の「偶然」は偶然に果敢に向かっていく感じが何か勇気づけられました。

間違っても、勘違いでも、急なことでも何かしらの自分のストーリーがあるはず。だから流さずに偶然の先をもっと想像しようか、などという割とポジティブに自分へ返ってくる心地よさを覚えました。

本読み

ホームページの舞台挨拶レポートを拝見すると、みなさん一様に「本読みが撮影よりも長い」ということをお話しされています。思い返してみてうと、「ドライブ・マイ・カー」でも本読みのシーンがとても多かった印象です。舞台裏などしらにみとしては、こんなものかと思っていましたが、映画でも本読みへの比重が多い方なんだと知りました。俳優さんの個性を生かすよりも、自分を一度 空にして、言葉でセリフを染み込ませてその役になりきるということらしいです。

例えば、体内の排泄物を全部出して出し切って、全く食べたことのない新たな要素を食べていく感じですかね。自分のイメージとしては。体質改善などとも言いますが、そこに近い感覚なのでしょうか。

もう一度

この話は、笑いもあるけれど、身近でいてけれども、少しあり得ないと思ったり、自分にも起こってほしいと思ったりしまし。素朴に誰しもがもちやすい過去の後悔に焦点を当てています。「あの時、声かけられなかった」「あの時、こうすればよかった」なんてひきづる思いが、偶然に重なっていく。二人の距離の縮め方は独特で、少しハラハラもするけれど、お互いに相手の事情を想像して受け止める優しさが愛おしいとかんじました。

さらに濱口監督に魅了されました。また別の作品を観たいと思います。

『ジェノサイド』高野和明さん お勧めです

こんにちは。今回は高野和明さん著書の「ジェノサイド」(2011)角川文庫 について書きたいと思います。シゲアキ君も折に触れて紹介していますね。最近だと2021年の『ダ・ヴィンチ』でも紹介しています。

あまりにもダイナミックすぎて、映画化などは難しいと思われるからこそ、書籍なのだと思います。まだ読んでいない方は、本当に読まれることをお勧めしたいです。

改めて読みました

今回ブログを書くにあたり、再読しました。初めに読んだ時は、ただただ圧倒されました。先がどんどん気になると言う、先行刺激がものすごい勢いで、自分に降りかかってくる印象でした。目を覆いたくなるような場面はありましたが、結末に急がされる衝動に駆られてあっとう言う間に読み終えました。

再読前に、LRA軍に操作されている子ども兵のことを思い出しました。露骨な描写が、再読を少し躊躇させましたが、読み始めると結末がわかっているからか、向かい合って読めた気がしました。と言っても、向かいあったなんて軽い言葉に過ぎず、実際起こっているアフリカの内戦の被害者となる子どもたちは現実に存在しているわけです。書籍を通じて、アフリカで起きていた事実を知り悲痛な思いになるなんて、いかも浅はかな人間と言う気がします。そんな自分と言う人類は本当に知性的な生き物なのか、改めて考える次第です。

人類は知性的な生き物であると言うのは本当か疑問になる

再読して冷静に思うことは、霊長類の中で一番賢く、高い知能を備えているというホモ・サピエンスです。しかし、ルーベンスがハインズマン博士の自宅を訪ねたところで、ハインズマン博士が話していた言葉。

人間だけが同種間のジェノサイドを行う唯一の動物。

我々だけが生き残ったのは、知性ではなく、残虐性が勝ったからー

下巻p161

その通りに実行しようとしていたのが、大統領のバーンズでした。

人類が進化した先の生物が”ヌース”です。人類はヌースの存在を認められませんでした。人類の能力をはるかに超越したヌースは、未来を全て見通すことができます。人類はまだ、自然において何が起こるか予測することしかできません。だから、怖いのでしょう。怖いから、自分の存在を守るために今を必死に生きている。その結果、悲惨なことは耐えないのかもしれません。一方、ヌースは予言ではない世界にいて、未来が見えています。

”複雑な全体をとっさに把握する”ことができるけど、それって少しつまらない気もしてきます。だけれど、このフィクションの中の進化した生物は限りなく平和を求めています。わかっているから相手を差別したりせずに、尊重しあえるのでしょうか。

人間と言う生物を見直すきっかけ

兎にも角にも、やはり人間ってその人の「人格」形成によって善くも悪くもなると言えます。人格形成がされる過程は、親子のやりとり、そして生きていく環境などにより大きく変化します。ただ、その親子のやりとり云々は、人と言う生物が進化して獲得した感情の分化の産物によるところが多いと思います。「怒り」「恐怖」「喜び」「悲しみ」「愛情」「妬み」など。人間の象徴と言って良いほどのこれらの感情。厄介でもあり、人間として生きていく楽しみでもあります。

自分も含めて、人は人と比べて自分を評価する癖があります。それが「妬み」や「嫉妬」などと変化することが多いのです。自分の子どもや家族、自分自身を他人との比較によって価値を見出す中で、子どもの価値観が歪んでしまう可能性があります。

話はそれますが、子どもの情緒の発達段階では「快」「不快」と言う感情は早期に現れます。成長に従い色々な感情が分化して「嫉妬」「妬み」などと言うのは、とても高度な感情と言われています。

人間は進化し過ぎたのかとも思えました。

人間が捨てたものではないという結末

結末はもちろん本書にという形で書きます。しかし人間という生き物が残念と思い悩みながら読む最中、所々に希望が隠されています。だから、面白い。

シゲアキ君同様に、私もこの本が好き過ぎます。感想は言い出すとキリがないのでここらで終了します。

 

「染、色」岸田國士戯曲賞ノミネート について

 

こんにちは。

昨日の話です。1月31日に不意をつかれる発表がありました。

加藤シゲアキ君の脚本で2021年に舞台上演された「染、色」が第66回岸田國士戯曲賞白水社主催)にノミネートされました。

岸田國士戯曲賞は、劇作家・岸田國士の遺志を顕彰すべく、株式会社白水社が主催する戯曲賞。

本賞は、演劇界に新たなる新風を吹き込む新人劇作家の奨励と育成を目的に、1955年に新劇戯曲賞として設置され、1961年には「新劇」岸田戯曲賞、1979年に岸田國士戯曲賞と改称され今日に至る。

新人劇作家の登竜門とされることから、「演劇界の芥川賞」とも称される。

選考対象は、原則として1年間に雑誌発表または単行本にて活字化された作品とする。ただし、画期的な上演成果を示したものに限って、選考委員等の推薦を受ければ、生原稿・台本の形であっても、例外的に選考の対象とすることがある。

正式名称は「岸田國士戯曲賞」(きしだくにおぎきょくしょう)である。

受賞者には、正賞・時計、副賞・賞金が贈られる。

www.hakusuisha.co.jp

演劇界の芥川賞と言う言葉通りに劇作家の登竜門と言う名高い賞とのことです。

シゲアキ君はこの「染、色」を元々舞台で演じられることを想定して「傘を持たない蟻たちは」と言う短編集の一つとして書かれています。

本来は2020年の6月に公演予定でしたが、新型コロナウイルスによる影響で、延期になり2021年の5月開演しました。シゲアキ君は、ステイホーム中にこの作品を見直し書き換える作業などに取り組んでいたようです。その結果として、今回のノミネートに繋がっていると思います。

作品について

2020年3月に「オルタネート」が吉川英治文学新人賞を受賞しました。このお話も高校生活を舞台にした、青春群像劇でした。そしてこの「染、色」も大学生と言う青年期の内面の悩みや葛藤を表現した作品です。過去の「チェベローズで待っている」にしても、多少登場人物の年齢は違えど、思春期・青年期の戸惑いを多く表現していました。このような、空想や夢想に惑わされながらも、なんとか地に足をつけようともがく人物の表現が美事だと思っています。

舞台について

私もこの「染、色」を鑑賞することができました。

過去に読んでいた「染色」は読み返さずに、心に残ったままで向かいました。なんとなくの記憶を頼りに、一体どう演じていくのかという疑問も抱いていました。

以前ブログでも書いた三浦透子さんが美優を演じました。舞台上では、躍動感があって書籍の美優とはまた違う印象を抱きました。話の道筋は多少変わり、この舞台ならではの結末を迎えます。このような流れは、まさに舞台を想定したものであって、観た後に、何かフッと彼女の影が心の残る、そんな舞台でした。

選考会は2月28日とのことです。

直木賞吉川英治文学新人賞本屋大賞など、緊張を共に味わせてもらえることへ、感謝の念に堪えません。

川上未映子さん「ヘヴン」について

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こんにちは。今回は川上未映子さんの「ヘヴン」について書きたいと思います。2009年9月に講談社文庫から刊行されています。

シゲアキ君との関係では2019年のタイプライターズに川上さんがゲストで出ています。また「ヘヴン」についてはNewsweekでもシゲアキ君が「人生を変えた本」として紹介しています。

初めて読んだ時には、感想というものがでずに、どこか目を背けたくなる感じがして、一度読んだきり本棚に飾られていました。最近、また読み直しました。2回目は思いの外、冷静に読めました。

苛められた理由

最近は、ヘヴンに出てくるほどの露骨ないじめは減った印象があります。むしろ陰湿なものが増えているのが困り物の世の中です。

さて、主人公の僕とコジマはクラスの生徒から目を背けたくなるようないじめを日常的に受けています。その理由なんて言うのは、それこそ百瀬がいうような”たまたまそこに君がいて”と言うようなものだったのかもしれません。

だけれども僕からすれば、たまたまではなく、僕は明らかな自分の斜視と言うものに理由をおいています。理由があるから、耐えられたのではないかとすら思います。

一方、コジマは自分の容姿が理由だとははっきり言っていません。もっと抽象な、”しるし”と言うものと苛めを結びつけています。それはいわゆる一般的に考える”いじめ”とは違うものとして苛めを捉えています。自分が生きるための必然として起こる出来事として捉えているような気がします。

僕は、体育倉庫で酷いめに合い、どんどん精神が病んでいくのにも関わらず、コジマはむしろ強くなっていきます。その先にある”ヘヴン”を待ってたのだろうと思います。

思春期から大人になる

中学生にとって、目の前で起こっていることが世界の全てのように感じてしまう。百瀬が言う言葉は、どこか納得さえしてしまうところが憎たらしい。僕もどこか納得しかけている部分があった。許せないことではあるけれど、僕からすれば全てだと思っている世界が”たまたま”と知って、この事態をどう解釈するのか迷い始めていたように思う。

思春期から大人になるって、そういう所だと思います。高校生になると、何か急に世界が開き始めて、大学にいくと何か得体のしれない自由を手に入れた感覚。全く清々しい青春物語ではないけれど、ある意味、そんな大人になる視点を不意に義母や医者からもらうような感じがしました。

僕には、入り込みすぎずに、思春期男子には絶妙な距離感を維持する義母がいた。しかしコジマはどうなのだろうか。”ヘヴン”にたどりつかないでくれることを祈りたいと思いました。

川上未映子さんの作品

川上未映子さんの作品は他にも「乳と卵」や「夏物語」を読みました。女性が大人になると言うこと。女性性を生きると言うこと。子どもを産むと言うこと。など繊細な性に対する変化や感情を扱う作家さんと言う印象が強いです。「ヘヴン」は少し違う雰囲気だと初めは思いましたが、この作品も大きく見ると、子どもから大人へと言う思春期の繊細な心情を描いていると感じます。